ノヴ子の旅日記

英語学習やキャリアについて。読んでくれた誰かの役に立っているとうれしいです。

Iさんと会った話

Iさんは貿易会社の社長で、台湾出身。日本へは約20年以上住んでいるようで(当時コンクリートに水をまく日雇労働的な仕事もしていたようで、2001年に開業した東京ディズニー・シーは自分が作ったと言っていた)、台湾、韓国などアジア圏を中心に月1ペースで出張をしているという。


今回そんな社長と初めて会い、中国へ行ってきたのだが、Iさんは面白く口調が柔らかく、時には真面目な話もできる緩急のバランスの取れた印象深い人だったので記しておきたい。

 

【話上手】
台湾出身で、在日はそれくらいになるかはわからないが日本語も十分に上手で、日本ですでに結婚もしている。そして話が面白いのだ。

ちゃんとオチもあれば、声に抑揚も顔の感情もついてくる。

仕事の予定を入れるのを忘れて部下に怒られる話、山東省から台湾に逃げる際の彼の祖父の話、どれも中国人、日本人問わず笑わせてくる。

 

【歴史好き】
Iさんはは歴史が好きだ。

特に第二次世界大戦日中戦争、その後の国共内戦らへんは特に詳しく、知らない話がボンボン出てくる(外国人と一緒になるとここらへんの話で無知すぎて日本人が黙り込むのはよくある光景)。

その中でも国共内戦の話で毛沢東は実はそんなに戦っていないのに、政府を樹立した後の情報統制で、大陸の中国人が実は毛沢東そんなに頑張っていなかったのか、と知るのは最近になってからの話しである。
彼はそのときに蒋介石の話もしていて、蒋介石も台湾に逃げ込んで来る前に大陸の墓に埋蔵されていた金銀財宝を持って台湾に逃げてきたこと、その後国民軍は台湾で盗むなど悪行を繰り返したこと、を語っていた。

当時国民党が来る前の台湾は日本が整備したライフラインがあり、いい水準の生活といい教育で窃盗などの犯罪率が低く、外出の際の戸締まりをすることがすくなかったという。だから国民軍にとって台湾は盗み放題の宝の山だったという。
そんな蒋介石毛沢東と同様に悪行を重ねながらも英雄視されるように統制をし、没後には顕彰施設として中正紀念堂を作った。

中正は蒋介石の本名でしかし彼の没後、評価の見直しがあり、名称は変わったらしい。(※その後、2007年に台湾民主記念館に改称されたが、国民党に政権交代された2009年に再び中正紀念堂に改称)
Iさんは一連の為政者の情報統制をだったり、歴史を知ることは面白いと話していた。

 

 

【熱い人】
そんなIさんは幼い頃は中国と戦う、と考えていたらしい。

Iさんの幼少期は1970年代で、きっと台湾の民主化運動が盛んになり始めた時期。話を聞いているとIさんは民進党寄り。ピリピリした状況があっただろうが。
でも今になると日本に移住したし、早く走れないし、中国とは戦いたくないそうだ。

 

 

【人脈の豊富さ】
ふとした時に一緒に行っていたKさんの別の仕事の話になった。

長崎の取引先の話になったのだが、なんとその会社と仲良しだという。

ある施設作りにコンサル的に入って一緒に仕事したそうだ。Iさんは人助けはするが、お土産は買わない主義だという。

 

〈まとめ〉

他にもIさんは貿易業でも培った視点からそもそも輸入できなかったら誰が責任取るのか、など我々が見落として進めていたとても基本的かつ重要な項目について気づかせてくれたり、Iさんと今回知り合えて本当に良かったと思った。
持ちつ持たれつ、また人のやらないこと、まだ誰もやっていないことをしてグワンシー(中国語で関係、人脈)を広げていくこと。

面白い話もするけど、実は根は真面目であること。そんなことを教えてくれたIさんとの出張であった。

実はここまで書いていて、彼の歴史の話ではいくつか修正したい点もあるのだが、知らないだろうなと思った相手には多少ふっかけても気づかれず、逆にすごいという印象を残せること、多少間違っていても自信を見せつけること。そういうことも教えてくれたのだと思う。